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協力コース一覧東日本 | GDOプレミアム倶楽部

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GDOプレミアム倶楽部

 
小金井カントリー倶楽部
小金井カントリー倶楽部
協力コース一覧
概要
林間コース。武蔵野の面影を随所に残すコースは自然の地形そのままで変化に富み、各ホールともそれぞれ趣があるため飽きがこない。グリーンは小さく砲台でバンカーにガードされているため、正確なショットが要求される。アウトはフェアウェイが比較的広くティショットが打ち易いが、緩やかな起伏があるためセカンドショットの方向取りと距離の合わせに注意が必要。インは両サイドから林が迫り、ティショットの方向性を高めることが望まれる。13番まで無理をしないのがスコアメークの鍵。
コースガイド
〒187-0012 東京都小平市御幸町331
TEL:042-381-1221
中央自動車道/調布ICより9km
昭和12年10月3日
W.ヘーゲン
18H PAR72
72.2
6,760yard
あり
沿革
日本におけるゴルフ界は、明治34年(1901) に我が国最初のゴルフ・コースが、六甲山上に4ホールの私設コースとして誕生、その後いくつかのコースも出来たが、まだまだ上流階級のスポーツであった。しかし関東大震災の翌年に戸山ヶ原の陸軍練兵場で即席の6ホールを想定して、ボールを打って楽しんでいたグループが、平山の丘陵地5万坪に、極めて庶民的な武蔵野カントリー倶楽部を造り、ゴルフの大衆化の先鞭となったが、大正15年に狭い平山コースからの移転を計画、千葉県六実に18ホールを開いてから急速に会員数が増加、名実ともにゴルフの大衆化が進んだのであった。
このような背景のもとに霞ヶ関(昭和4年)、我孫子(昭和5年)、相模(昭和6年)、東京ゴルフ倶楽部の朝霞移転(昭和7年) 、広野( 昭和7年) など多くのゴルフ倶楽部が相次いで誕生し、第二期とも言えるゴルフ発展時代に入った頃であった。 当時ゴルフ場の造成には、戦後の施工のような機械力も無かったので、出来るだけ平坦な土地を探し、地山のまま自然の地形を生かして芝を貼るという、いわゆる手作りの方法で施工が行われていた。このような施工方法をとっていたので、当時河床を利用するゴルフ場もゴルフの大衆化とともに考慮させられるようになった。川崎市小向の多摩川下流沿岸の河床を利用して、川崎ゴルフ倶楽部が出来たのは昭和9年頃であったが、当時同じように河床を利用した多摩川下流の六郷コースや、荒川に作られた学士会コースよりも面積が広く、平坦でチャンピオン・コースの長さもあり、都心よりの高速の便が良かったので、入会者も多かった。
其の頃六郷の河川敷きにゴルフ場を造った芝商、安達商会の安達貞市氏は、予てから中央線沿線に一つくらいゴルフ場があっても良いのではないか、と言う考えを持っていた。たまたま安達商店に勤めていた中島仲一氏が、小平方面の土地柄を良く知っていたので、小平町鈴木新田にゴルフ場に適した土地を見付けてきた。この土地は中央を縦貫した低湿地帯のため利用価値も少なく、少しばかり高台にある農地さえ買収すれば、18ホールのゴルフ・コースの建設が可能である、との見通しが付いた。しかし実際に土地を買収するとなると、その見通しはどうであろうか。地元の有力者である鳥塚勘兵衛氏や海岸寺の住職等にこの計画を話してみたところ、協力をしてくれるという事になった。そこでこの話を六郷ゴルフ場の支配人岡本忠雄氏に話したところ、「それはすばらしい。もしコースが出来上がれば、私がそこの支配人になってもよい。」ということであった。しかし実際にゴルフ場を造るということになると、ゴルフ界に詳しい人に協力を求めなければならない。岡本氏は、自分と昵懇な深川商会の深川喜一氏を紹介するから、相談をしてみたらどうだろうか、ということになり、安達氏が同道して深川氏を訪問したのであった。深川氏はゴルフ界に携わる一人として、ゴルフの普及を望んでいたので、それでは現地を視察しようという事になった。「現地を見ると、桑畑と森林が主で、耕作地は少なく理想的な高低起伏があり、枝振りのよい老松は点々としているし、武蔵野特有の沃土だし、文字通り好適地である。ただ将来倶楽部として繁栄性があるや否やが熟慮を要する点であった。折角出来てもその運営ぶりがうまくゆかねば、会員諸君にお気の毒でもあり、又創設者として無謀だとの批判も受けねばならない。」と、その頃の事を回想した深川氏は昭和29年に発行された小金井の会報に「小金井創設の思い出」と題して一文を寄せている。
当時の東京は、関東大震災で被災の大きかった東京市内から、郊外へと移り住む人達が多く、とりわけ中央線沿線の中野・荻窪・吉祥寺あたりの発展は、目ざましいものがあった。深川氏はこの土地が中央線沿線にあることは、東京において最も交通至便なゴルフ場になることに着目した。将来、都市が更にこの方面に伸びて行くならば、南の程ヶ谷、北の我孫子などは、市内から少なくとも一時間以上はかかるが、小金井は市内中央部の丸の内からでさえも、一時間でゴルフ場に行くことが出来る。このように有利な立地条件であれば、ゴルファーを集めることはさほど困難でもないし、倶楽部の運営も有利に展開する事が出来るだろう。そう考えた深川氏は、土地さえ買収することが出来るならば一肌脱いでみたいという考えになり、昭和10年の初夏に「清水の舞台から飛び降りるつもりで、やってみる。」ことになって、安達氏に土地の買収を依頼したのである。
 
 
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