戦前に三菱に勤め、戦後は千葉の一の宮に引っ込んで農業(当時千葉県森林組合連合会専務理事)をやっていた志田一郎氏が、千葉県1953年用地確保の可能性がある野田市弁天池近くの山林地帯を見出し、清水建設相談役の清水揚之助氏、野田醤油の茂木順三郎氏、茂木啓三郎氏の賛同を得、同年11月に発起人会を開催した。発起人代表に高石真五郎氏が推挙され、野田市内に千葉県で戦後初のゴルフ場建設が具体化するのである。
用地買収に奮闘しながらも、1954年3月に着工し10月24日アウト(現イン)9ホールとクラブハウスの施工がなって仮開場式がおこなわれた。残るインコースの用地買収も地主の理解を得、1955年3月着工し10月9日には高松宮妃がテープをきられ、正式に18ホールズとして開場したのである。
会員募集は1954年春から始めたが、10月の仮開場までに順調に進んだ。開場してからは「林間コース」と言われるほどの素晴らしい樹木、平坦ながら素直な品の良さをみせるコースに、予想以上の人気を呼んで1955年秋に18ホールになってからは入会者が更に増え続け、もう限界だと言うほどになった。
その後、志田氏は川間コース、梅郷コースの造営に当たり、千葉カントリークラブは3コース54ホールズを持つ大ゴルフクラブになったのである。 |